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フラヒのふろく > 2009年06月

農村の日々のあれこれエトセトラ

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稀音家 六綾さん[三味線講師](キャリナビ記事感想)

〔オンリーワンワード〕
 『だって歳はとるものでしょう。』

〔感想〕
記事を読んで、途中で何度も笑いました。六綾おばあちゃんの、スコーンと爽快な物言いが、とても愉快でした。


たとえば、「家族」についての言葉。

『正直あまり孫たちに興味は無いです。』
『自分は産んでもらったけど、子供はいらないっていうのはずいぶんエゴだと思いません?』
『同じ40歳でも、一度離婚して子供もいますって人の方が結婚しよう、と思わない?』


これらの言葉は、その言葉だけを見ると、「良識」「常識」のない、わがままな言葉とも取れかねません。でも、そんな「常識人」こそ、理屈をこねるのをやめ、一度冷静に自分の心の中を見つめる必要があるのかもしれません。


自分の「本音」って誰にでも言えるわけではないけれど、でも六綾さんのような人になら伝えられる、むしろ激論してみたい、という気がしました。


あ、他人と向き合うってこういうことか。

相手の本音を引き出して、それを受け止められる人。自分の考える「大人」になりたくて、もがく毎日です。そのためにとても大切なことを、六綾さんが教えてくれました。


最初のレッスンは、自分の気持ちをごまかさず、きちんと意識すること。そして次は、その伝え方を学ぶこと。


そうやって一つずつ歳を重ね、六綾さんのように、『だって歳はとるものでしょう。』と笑って語れる大人になりたい。記事を読んで、そう思いました。


六綾さん、そして取材をしてくれた辻さん・ 中屋さん・鈴木さん、どうもありがとうございました!


◆キャリナビ 記事: 稀音家 六綾さん[三味線講師]
 http://www.carinavi.org/ja/career/461/

タグ:キャリナビ

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エコ貯金プロジェクト

いくつかの市民団体で活動する中で、現場での出来事だけでなく、世の中の大きな流れを知ることの大切さも痛感していた2007年の春。

ミヒャエル=エンデの著作や地域通貨の考え方に触れる中で、「お金」という制度に対する関心が出てきて、少しずつ調べ始めました。


そんな時に出合ったのが、(特活)A SEED JAPANのエコ貯金プロジェクトチームの活動です。自分が金融機関に預けているお金が、どう使われているか。その融資先に目を配り、自分にとってより納得のできる金融機関を選ぶことで、世の中を変えていく。

その視点がとても興味深く、もっと知りたいと思い、定例ミーティングに参加しました。


集まっている人は、ほとんどが20代から30代前半。その若さと、勉強熱心さが第一印象です。アットホームで、周りのみんなも勉強中という雰囲気があり、ワークショップや資料作成、広報などのチームで活動を始めました。


数か月後には、イベントに参加して、来場者に「エコ貯金プロジェクト」の説明を始めました。環境系のイベントだったため、来場者の興味に近かったためか、話していてとても楽しかったです。


その頃、エコ貯金プロジェクト以前から関わっている複数の団体で役員をすることになり、そちらに集中することにしました。

ただ、エコ貯金プロジェクトの活動にはとても共感しており、これからも活動に注目しつつ、自分なりに情報発信をしていこうと思っています。

タグ:20代 エコ貯金

ボランタリーフォーラム

2007年春。若者勉強会の友人に誘われ、東京ボランティア・市民活動センターが主催する『市民社会をつくるボランタリーフォーラムTOKYO2007』の会議に参加。

実行委員として関わることになり、分科会の企画や進行について話し合いました。


実行委員の皆さんはバラエティに富んでいて、ベテランの方も、NPOなどで働き始めたばかりの方も、学生の方もいて、毎回のミーティングはとても刺激になりました。

また、それをまとめる実行委員長・鹿住さんのパワーと、事務局の皆さんの段取り力に感嘆しました。


自分も分科会を企画させてもらえることになり、若者勉強会のメンバーと一緒に、開発教育教材『世界がもし 100人の村だったら』を用いたワークショップを企画しました。


公開勉強会後、久しぶりの企画だったこともあり、メンバー数人で準備をしました。当日は、土曜の午前中という時間帯にもかかわらず、30人ほどの人が集まり、目で見て直感的に分かるワークショップとすることができました。


その他、4つのテーマで全22の分科会を企画・運営した実行委員の皆さんの企画力、土壇場でのパワーを間近で見ることができ、とても有意義な委員会でした。

委員会後の懇親会では、それぞれの方の現場や組織の話、希望や不満など、ざっくばらんに話せて楽しかったです。


翌2008年も、実行委員に誘っていただき、再び参加しました。実行委員の皆さんの顔ぶれはかなり変わっていましたが、そのパワーは相変わらずで、有意義な会議でした。

ただ、本番当日が地球市民アカデミアのプレゼンテーション合宿と重なってしまい、あまり積極的な関わりができず、とても残念でした。


NPOや市民団体同士のネットワークの場に参加できたことは、とても良い経験となりました。また、50人規模の企画を積み上げて1000人規模のイベントにしていくノウハウに触れられたことは、とても刺激となりました。

皆さん現場の第一線で活躍されており、気後れすることもありましたが、今後とも自分にできることを模索していきたいと思います。

タグ:20代 ボランタリーフォーラム

シアター「なんみんと夢」

2006年春。青年海外協力隊の友人に誘われ、日本在住の難民の方と一緒に演劇を作って発表することになりました。

参加者は10人弱。それぞれの関心や価値観の違いはありますが、日本の難民問題を考え、伝えたいという想いは共通でした。


プロの役者ではなく、練習回数も限られていましたが、練習を始めるにあたって参加者全員で確認したことは、「この演劇を作る過程そのものが、難民の方にとって少しでも安らぎの場となること」「難民の方が日頃言えずに心にためている思いを、関心を持つ来場者に直接伝えられる場とすること」でした。


彼らが少しずつ自分の体験を話してくれるようになったのは、それまで地道に長い時間をかけて信頼関係を築いてきた、『(社)アムネスティ・インターナショナル日本』の方々などのサポートがあったからだと思います。


入国管理局などでの彼らのすさまじい体験は、なぜ起こってしまうのか。祖国で命を懸けて同胞を守ろうとした彼らが、逃れてきた他国でなぜ惨めな思いをしなければならないのか。

また、そんな彼らを支え続けるサポーターたちの想い。毎回の練習では、頭の中をいろんな考えがぐるぐるしていました。


本番も、ストーリーをきちんとこなすことより、難民の方が自分の思いを直接言葉で発すること、そのための環境づくりを第一に進めました。

50人の観客が見守る中、主人公の魂の声が会場に広がり、観客がしっかりと受け止めていたように感じます。終演後の共同制作や意見交換も、とても有意義なものでした。


翌年の夏に、第2回の公演を行うことができました。メンバーも増え、1回り大きな会場でたくさんの観客に見守られながら、彼らの声が少しでも伝わる場を作る意味を改めて感じました。

タグ:20代 なんみんと夢 難民 舞台

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こらぼ(勉強会&交流会)へ参加

学生時代の友人と10年ぶりに再会しました。今年は本当にすごい年です。連絡を取り続けられたことに感謝!


友人が誘ってくれたのは、『こらぼ』という勉強会&交流会。本田さんというキーパーソンを中心に、もう10年くらい続いている会だそうで、友人も8年ほど参加しているとのことでした。

今回も20人くらいが集まり、常連さんも始めての方も居て、その会のあり方がとても面白かったです。


前半の勉強会では、東京ガスに勤めるゲストの方が、パワーポイントを使って、面白おかしく聞き応えたっぷりの話をしてくださいました。参加者からの質問も活発で、勉強会の質の高さに驚きました。


後半は近くの居酒屋で、和やかな雰囲気の交流会でした。10年ぶりに会った友人との近況報告もとても新鮮で楽しかったです。その後途中退席したため、もし次の機会があれば、他のいろんな方とももっとお話しできればと思います。


地球市民アカデミアの運営にどっぷり浸かってきた身として、この『こらぼ』のスタイルは、いろんな意味でとても勉強になりました。東京でなくてもできるスタイルを考えるヒントを、東京に居る内からいろいろ集めようと思います。

タグ:講座 社会起業 歓談

若者勉強会

2005年。年が明けるとすぐに東京に引越しました。

20代の内に一度は東京で暮らしてみたいと、就活をしながら考えていましたが、縁あって実現することになりました。

友人宅に居候しながら転職活動をし、家を決め、怒涛の1か月はあっという間に過ぎ、都庁の隣のビルで働くことになりました。


働き始めたその日から、都庁の下で暮らすホームレスの人たちの多さに驚きました。

え、日本で?こんなにたくさん?自転車通勤だったため、都庁の周辺の公園や路上にまであふれる彼らと毎日出会うこととなり、疑問は膨らんでいきました。


とはいえ、そのまま過ごしていれば、自分も彼らの存在に慣れ、やがて気にしなくなっていったのかもしれません。

ただ、その年の春から、東南アジア青年の船の先輩に誘われて受講するようになった地球市民アカデミアの講義の1つに、「国内の貧困」というテーマがあり、初めて「日本国内の貧困問題」に意識を向けるようになりました。


講義の後、地球市民アカデミアの運営委員の方に案内され、隅田川医療相談会に参加しました。そこには、医師・看護師・弁護士をはじめ、ボランティアでたくさんの方が集まり、毎月1回、ホームレスの人たちへ無料の医療相談会と炊き出しを行っていました。

数十年も、労働と貧困の問題に取り組んできた方も居て、自分の知らなかった世界に驚き、もっと知りたいと思うようになりました。


初めて参加した隅田川医療相談会の場で、若い世代のボランティアが増えてきたこともあり、みんなで勉強会をしませんか?というお誘いがあり、参加するようになりました。

集まったメンバーは、自分と同じく、ホームレス問題を最近知った人がほとんど。自分たちだけで勉強するのも良いけれど、せっかくなら公開勉強会を開きたい、その方が自分たちにも勉強になるだろうという意見が出て、集まったメンバーは翌年3月に卒業する学生が中心だったこともあり、翌年の3月までに3回の公開勉強会を開くことになりました。


とはいえ、初めて集まったメンバー同士。企画に関してはみんな素人で、そもそもだれを講師に呼べば良いかも分からず、隅田川医療相談会で活動する方々にアドバイスをいただきながら、手探りで企画を考え始めました。


団体名に関しても、『ホームレス勉強会』『社会的排除を考える会』など、いろいろな意見が出ましたが、テーマを絞らずいろいろと考えていきたいという事で、『燃える若者の会(略称:もえわか)』に決定しました。

いまもこの名称に愛着(?)のあるメンバーもいますが、広報や団体登録の段階になって、外部に伝える勇気がなく、最終的に『若者勉強会』に落ち着きました。


11月、1月、3月と、何とか3回の勉強会を行うことができました。毎回、60人を越える方に参加していただき、こういったテーマに興味を持っている(でも敷居が高いと思っている)人の多さを改めて実感しました。

各回には、メンバーからの報告や、寸劇、パネルディスカッションなどを入れ、進行も工夫しました。中でも、現場で実際に活動をされている方の声はとても好評で、勉強になりました。


半年間、全速力で駆け抜けたメンバー。多くは卒業を迎え、東京を離れる人もでてきました。公開勉強会とは違った形での活動の継続も模索したのですが、誰もが新生活に追われる中、解散となりました。

自分自身の経験をふり返ってみても、学生時代に力を入れていた活動を卒業後にも続けていく難しさを感じます。ただ、学生時代だからこそできること、短期集中のエネルギーというのは確かにあるし、その時の経験が別の形で活き続けているのも確かです。


若者勉強会に関しても、それぞれのメンバーの中で、当時の経験が活き続けています。代表の田中君は、留学、帰国、就職を経て、野宿者支援団体に転職。

それをきっかけに、2008年夏、新たな団体『紡[つむぎ]』を立ち上げました。その持続力と決断にとても感服しています。


自分も紡[つむぎ]の勉強会に参加しながら、どう生きていくか、どう関わっていくかを考えています。

転居も決まり、新生活への期待と同時に、東京での残りの時間の使い方を考える意味でも、自分の20代をふり返っています。

タグ:20代 反貧困 若者勉強会

マイクロファイナンスとホームレス支援

学生時代の友人と、数年ぶりに再会しました。飄々とした口調は相変わらずで、まったりと楽しい時間を過ごしました。


きっかけは、「マイクロファイナンスについて、何か知ってたら教えてほしい」という電話でした。残念ながら個人的には全然知らないのですが、最近『エコ貯金』のメーリングリストに関連情報が流れていたのを思い出し、ほんの少しだけ調べた情報を伝えました。


生活困窮者への無担保・小額融資という意味では、海外の発展途上国などに目がいきがちですが、日本国内でも可能性は無いだろうか、などと漠然と考えていました。最近どうも国内志向です。

ホームレス支援の現場では、すでに『ビッグイシュー』などの社会的企業が活躍し、自立支援と継続的なビジネスの両立を模索しています。

また『もやい』では、ホームレスの人たちの連帯保証人サービスを提供しています。もしかしたら、日本国内でも生活困窮者向けのマイクロファイナンスの取り組みが始まっているかもしれません。


また、地域通貨によるマイクロファイナンスを使った街おこしなど、可能性はたくさんありそうです。これから、関心を持ってマイクロファイナンスの情報に接してみようと思いました。

タグ:反貧困 社会起業

JICA青年招へい事業合宿セミナー

2005年の夏。青年海外協力隊の先輩に誘われ、『JICA青年招へい事業合宿セミナー』に参加しました。

世界の国や地域から、技術などの研修に訪れる外国青年たちと一緒に行われる、合宿型の交流プログラムです。


自分が参加したのは、アフリカ仏語圏。アフリカのフランス語圏から来日した先生たちと、一緒に食事をし、歌や踊りを披露し、ディスカッションをしました。

自分はフランス語を全く話せないため、意見交換の場では、通訳の方にお世話になりました。


日本人同士で行う様々なプログラムでもそうですが、一緒に寝泊りをするかどうかで、仲良くなれる度合いがずいぶん変わってくる気がします。

今回のプログラムは1泊2日と短く、参加者同士でもあまり話せず残念でしたが、参加者がその後青年海外協力隊に参加するなど、交流は続いています。


その数か月後、同じ先輩から誘われ、再び参加することに。今度はアフリカ英語圏。懐かしいスワヒリ語圏の人たちもいて、つたなくなったスワヒリ語を駆使して、コミュニケーションを楽しみました。


日程が2泊3日だったこともあり、前回よりは余裕を持って参加できました。特に印象に残ったのが、同室になったマラウイ出身のスジカさんとの会話です。

家族のこと、仕事のこと、お互いの国のこと。いろんな話を交わす中で、彼にはこの日本や自分たちがどう映っているのか、素直に聞きたいと思いました。


「アフリカ人として、マラウイ人として生まれたことについてどう思いますか?」という、繊細な質問に対しても、真剣に答えてくれました。人生で起こる様々な出来事を学びととらえ、謙虚に受け入れる姿勢にとても共感し、話は尽きませんでした。


結局、その翌年(2006年)も含め、3度も合宿セミナーに参加しました。その度に誘っていただいた本多さんには本当に感謝です。合宿セミナーはその後終了してしまったようですが、同様の国際交流イベントはたくさんの団体が行っているようです。


1泊・2泊などの短期間にどういったことができるのか。中には、合宿セミナーを活かし、終了後にその国に遊びに行き、さらに人の輪を大きくしている友人もいます。

これからも国際交流の意味を考え続けながら、1人1人との交流を続けていこうと思います。

タグ:20代 国際交流

地球市民アカデミア

上京してすぐに、東南アジア青年の船の先輩から、『地球市民アカデミア』の報告会へのお誘いがありました。

青年海外協力隊への参加で自分の知識不足を痛感したこと、帰国後遠ざかっていた国際協力をもう一度勉強したかったことなどの期待をこめ、地球市民アカデミアを受講することに決めました。


1年間のプログラムは、前半の講義と、後半のグループ学習に分かれていました。

前半の講義の内、特に印象に残ったのは、「国内の貧困・ホームレス問題」を扱った回でした。上京後すぐに勤め始めた会社が都庁の隣のビルだったこともあり、都庁下のアーケードに集まるホームレスの人の多さに驚き、何が起こっているのかを知りたいと思っていました。

講義やその後の山谷でのフィールドワークを通して、日本の福祉に抜け落ちている大きな穴の存在や、構造的にホームレスの人たちが生み出されてきている現状を知り、驚きました。


国際協力、社会企業、平和、環境など、講義の内容はバラエティに富んでいて、同期の受講生たちの興味もさまざまでした。

ただ、地球市民アカデミアの講義全般を通じて共通していたのは、『開発教育』であり、『メディアリテラシー(発信者の意図を読み解く力)』であったように感じています。


1年間の受講後、縁あって3年間、運営に携わりました。地球市民アカデミアには、協力団体はあったものの、スポンサーを持たず、運営委員はボランティアで、受講料のみで運営していくスタイル。

運営が不安定となる反面、自分たちの想いを完全に講座に活かせるため、やりがいも負担も大きく、夜遅くまで議論することもしばしばでした。


講座の質を一定以上に保てず、運営委員同士の意見の相違などもあって、受講生にもっと良いものを提供できたのではと、反省は尽きません。

ただ、その手づくり感が伝わるのか、「大人」な受講生たちに助けられつつ、何とか無事に講座を終えることができました。

何より、運営を通して学ぶことの大きさ・多さ。そして、運営委員・受講生とのつながりの濃さ。これが一番の、地球市民アカデミアの魅力だと思っています。


修了生の1人として、これからもつながりを深めたい。また、そこで得た知識を発展させながら、メーリングリストに流れる興味深い情報に刺激を受けつつ、自分なりの発信を続けたいと思います。

タグ:20代 地球市民アカデミア

テゼの集い

友人に誘われて、相方と一緒に『テゼの集い』に参加しました。

会場となるSCF(学生キリスト教友愛会)を訪れるのも初めてで、誘ってくれた友人も自分たちもキリスト教徒ではないのですが、「静かな時間」に惹かれて参加しました。


フランスの「テゼ共同体」からのゲストを迎え、映像を見て、質問タイムがあった後、歌の時間になりました。ゆったりとした歌が流れる中、目を閉じ、いろんなことを考えたり、何も考えずにその場に在ったり、静かな時間を過ごせました。

日常の中にこんな静かな時間を取り入れたいなぁと思いつつ、ベランダ菜園もストレッチも続かない自分には、何らかの「場」が必要なようです。


東南アジア青年の船では、イスラム教・ヒンズー教・仏教・キリスト教の多くの友人と出会い、それぞれの信仰の話を友人として聞くのは、とても豊かな時間でした。日本の神道や日月神示にも興味があります。


今日の集いの帰り道、「特定の宗教にとらわれず、いろんな経典や信仰の話を聴き合える場があれば良いね」といった話も出ました。とても有意義な夜に感謝です。

タグ:祈り

東南アジア青年の船

九州アジア大学から半年後の2004年春。同窓会の際に、参加者の1人から、「世界青年の船に参加しました!」という近況報告がありました。

何だろう?と思い、自宅に帰ってインターネットを検索。内閣府の国際交流事業のサイトにたどり着きました。


調べていく内に、他にもいろいろな事業があることを知りました。中でも、『東南アジア青年の船』にとても興味が湧き、思い切って応募してみることに。締切まで数日、急いで応募用紙に記入しました。


事前研修では、初めて会う同期のエネルギーと、決めるべきことの多さに圧倒されました。平均年齢(22~23歳?)をかなり上回る自分がついていけるのだろうか、と少し不安になりながらも、青年海外協力隊や地元でのNPO活動など、年上の人と接したり、一緒に活動する機会が多かったので、自分の立場が新鮮でもありました。


そして10月、本体プログラムのため上京。その年は、最初に行われる日本国内プログラムの間に文化紹介パフォーマンスを行う日程だったため、寝る時間を削って練習しました。

『パパ・タラフマラ』に出合って以来、舞台裏にも関心があったため、舞台監督の1人を担当しつつ、太鼓や能のパフォーマンスにも参加。

舞台は数日前に出会った外国青年やスタッフの方からも好評で、かけてきた想いや満足度も高く、その後しばらく放心状態になるほどでした。


船上での生活や寄港地での活動、ホームステイファミリーとの出会い。ふり返ってみると、できなかったこと、もっとやりたかったことが次々と思い浮かびます。

九州アジア大学をふり返っても感じることですが、船を下りてからの様々な経験を経て、今ならもっと話したい、話せることがあるのに、という気もします。


嬉しい誤算もあります。外国青年と別れる際、「もう一生会えないかもしれない」と涙したものの、その後も交流が続いていること。

300人の中ではごく1部ですが、様々なプログラムを活用して実際に来日してくれる友人もいます。世界中で活躍する友人に励まされ、遅まきながら英語の勉強も始めました。


東南アジア青年の船下船後、上京してからの濃い日々の中で、オーバーヒートしていた頭にも少しずつ余裕が出てきました。離れていても、SNSやスカイプなど、交流する手段はどんどん増えています。

一緒に考えたいことがある今、つながりに感謝しながら、交流の糸を太くしていこうと思います。

タグ:20代 東南アジア青年の船

ノーム来日 浅草→表参道→原宿

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6月7日に引き続き、インドネシアから、東南アジア青年の船の友人が来日し、東京を案内しました。

宿泊先のホテルに迎えに行き、浅草でお好み焼きを食べ、お土産を買い、明治神宮を参拝し、表参道で夕食を食べました。


船の上で特に気の会った友人との、5年ぶりの再会。船の上での生活は「非日常」だと思っていましたが、そこで仲良くなる人とは、船を降りてからでも、数年後に会ったとしても、やはり気が合うことを実感しました。

「非日常」なんて無くって、どんなに普段と違う生活でも、それがその時の日常で、その時の自分と今の自分に特に違いは無いんだと思います。


久しぶりに訪れた明治神宮の空気はとてもおいしくて、その場所をノームが気に入ってくれたことがまた嬉しかったです。来年の再会を楽しみにしています。

タグ:東南アジア青年の船 街歩き

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バランドゥグ=カン

アフリカ。全く未知の世界でしたが、青年海外協力隊をきっかけに、とても身近な存在になりました。

とはいえ、地元で暮らしながら、無理せずにアフリカを感じることは難しいだろうなぁと帰国しましたが、幸運にも2つのものに出合いました。


1つは、『立命館アジア太平洋大学(APU)』。山の中に突然現れた大学は、70近い国からの留学生が全生徒数の半分という面白い学校で、ケニアからの留学生にも出会い、一緒にケニア料理を作って食べたりもしました。友人とは、お互い上京した今も交流が続いています。


もう1つの出会いは、ジャンベグループ『バランドゥグ=カン』。世界的なジャンベフォラ、ママディ=ケイタ氏が行った地元でのワークショップで、彼の故郷の村の名前を取ってつけられたチーム名だそうです。

2003年の夏に、アフリカに関心のあるメンバーたちと出会い、参加させてもらうことになりました。


練習はいつもアットホームで、基本的なリズムをおさらいした後、メンバーがワークショップなどで仕入れてきた新曲にも挑戦しました。

地道な練習の成果を発表する機会にも恵まれ、時にはステージの上で演奏したりもしました。そんな時には、APUから助っ人ダンサーが応援してくれたりと、楽しい交流を続けました。

個人的にはなかなか上手にならず、基本の3音を出し分けるのにも苦労しましたが。


ジャンベの魅力は、腹の底に響く重低音と頭の先を突き抜ける高音が、問答無用で迫ってきて、魂が揺さぶられること。から元気的な激しさではなく、体が反応して自然に揺れる感じがなんとも心地良いです。


参加して1年が経ち、代表のぴろさんの転勤などが重なって、バランドゥグ=カンは解散しました。自分はその後、東南アジア青年の船に参加し、翌年上京。

新たに知り合った友人と練習を始めたりもしましたが、練習場所などの問題もあり、なが~い休止期間は今も続いています。

押入れに眠ったジャンベが復活する日は…来るのか分かりませんが、縁を楽しみに、ライブなどに参加してアフリカのエネルギーに触れようと思っています。

タグ:20代 ジャンベ

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金澤君 結婚式

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友人の結婚式に参加しました。1年以上前から、着々と準備を進めているのをよく聞いていましたが、やはり直前は本当に大変だったようです。

本人が晴男のおかげか、梅雨にもかかわらず気持ちの良い快晴。「サプライズ」の言葉通り、多彩な演出でゲストを楽しませてくれました。洋装も素敵だったけど、2人とも和装がとても似合っていて、そして終始、とても幸せそうでした。本当におめでとう!

再来週にも友人の結婚式を控えています。また違った雰囲気の結婚式に出席できるのを楽しみにしています。

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タグ:結婚式

つながらなければ何もできない

紡[つむぎ]の定例会に参加しました。新しく参加する人も増え、ざっくばらんな話がとても興味深く、勉強になります。


昨年の秋から続く今回の金融危機は、1998 年頃に起こったアジア金融危機を超えてしまうかも知れないそうです。

当時、山谷の炊き出しには700~800人ほどが並び、お米が不足して、年間200万円ほどかかり、他の地域でもお米が不足したため、いくつかの団体が共同で『フードバンク』を立ち上げたという話を聞きました。そして最近の山谷の炊き出しでは、600人を越えるホームレスの人たちが並んでいると言います。


昨年末に立ち上がった『派遣村』も今月で終わることを聞きました。派遣村は、各地域のホームレス支援団体にとっても、セーフティネットの役割を果たしていたそうです。28日には、浅草でシンポジウムが開かれ、総括と今後の展望が話し合われるそうです。


話は社会運動にも及びました。そもそも「支援者」というスタンスは疑問で、自分も社会の一員なんだから、立場は違っても同じ社会の「当事者」ではないのか。支援する側の数は増えないのに、当事者の数が増え続ければ、今回の派遣村のように限界が来るのは当然で、結局は当事者がやっていくしかない。

社会運動の根幹には、人としての尊厳を奪われている現実があり、それを取り戻すには地道な「共同作業」しかない。など、多様な意見交換の場となりました。


また、長年ホームレス支援に関わっている人から、派遣村に来る若者には、1人で働いて、1人で辞めさせられ、1人で路上に出て、1人で派遣村に来る若者が多かったことを聞き、特に最近の傾向として、労働者が孤立させられている現実が見えてきました。

「つながらなければ何もできない。人をつなげていくのが、支援団体の役割なのでは」という言葉が印象に残っています。


では、なぜ人はつながろうとしないのか。つながるには、まず今の自分を認める必要があるが、「本当の自分はこんなんじゃない」と、自分の現実を受け入れられないのでは、との見方も出ました。

海外の貧困支援の現場に関わっている方からは、『ピア・カウンセリング』を国内の貧困問題の支援活動にも使えないかとの提案もありました。


また、「屋根には人の命を守る側面もあるが、人を孤立させる側面もある」という言葉に驚きました。生活保護を受け始めてアパートに入ることにより、路上生活で作り上げたコミュニティから離れてしまい、孤独になる人が後を立たないとのことで、「”どう路上を脱するか”も大切だが、”どう路上で生き抜いていくか”、”どう人とつながっていくか”という切実な問題も忘れてはいけない」と話していました。


毎月、本当にたくさんのことに気付かされます。現実はいっそう厳しく、自分にできることとして、悩みつつも発信していこうと思います。

タグ: 反貧困 社会起業 金融危機

木パブ

発起人の今長さんが、大分市内の知人のパブで始めた、海外在住経験者の集まり。2003年の夏、ふとしたきっかけで知り、何度か参加しました。


今長さんがオーストラリアでワーキングホリデーをしていた頃に、現地の斡旋会社が毎週木曜日に行っていたイベントを木パブ(もくぱぶ)と呼んでいたことに由来し、大分でも同様の活動を始めたとのこと。


大分市内で、同様の取り組みを知らなかったため、とても興味深く、ワーキングホリデーの話も新鮮でした。オーストラリアでは身近な雰囲気の良いパブでの時間も楽しかったです。

タグ:20代 ネットワーク

九州アジア大学

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青年海外協力隊の帰国から1年経った2003年の夏。

地元で国際交流の機会を探しているときに、大分県青年海外協力協会のメーリングリストで、『第7回九州アジア大学』の情報に出合いました。

九州8県+山口県の計9県から、日本人5人とアジアからの留学生5人の10人ずつ、計90人が集い、4泊5日の合宿を行いながら、ディスカッションや文化交流をする企画です。

これはぜひ応募したいと思い、職場にかけ合って、お盆休みを少しずらしてもらいました。


その年は鹿児島県での開催。九州の各県間はあまりアクセスが良くなく、その翌年に開通するはずの九州新幹線の看板を横目に、会場となる鹿児島サンロイヤルホテル(鹿児島市)へ向かいました。


テーマは「共に創るアジアの未来」(だったかな…)。基調講演や観光も有意義でしたが、分科会に分かれてのディスカッションが一番心に残りました。


自分は第7分科会「globalismとlocalismの間で農業問題を考える~Slow Food運動はアジアに根付くか~」に参加しました。日本でも注目されてきている『スローフード』について、日本・アジアとしてどんな可能性があるかをみんなで考えたかったからです。


概念の共有に始まり、小グループに分かれて個人の意見を交換したあと、今後の方向性について話し合いました。


『九州アジア大学』での出会いを経て、ますますアジアに関心を持つようになりました。

事業自体は2005年をもって終了してしまい、とても残念ですが、出会いを出会いだけで終わらせず、自分の中で深めていきたいと思っています。

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タグ:20代 九州アジア大学

APU国際協力研究会

青年海外協力隊に赴任している頃、地元・大分県に、新しく大学ができたという話を何度か聞きました。

どうも、かなりの数の留学生が入学しているらしいということで、帰国したらぜひ訪れてみたいと思っていました。


帰国後、日本縦断自転車旅行を終え、地元で就職。なかなか大学に行く機会が無かったのですが、2003年の春に国際協力セミナーに参加したときに、その大学の学生の方と知り合うことができました。


大学名は、立命館アジア太平洋大学(略称:APU)。学生の構成は、自分の想像で、世界80か国からの留学生が、全生徒数の半分という、とても面白い大学でした。

県民でも行ったことのないような別府の山の上を切り開いて建てられた大学に、その後何度か通うことになりました。


知り合った学生の方は、40歳を過ぎてAPUに入学した古川勝利さん。入学早々、『国際協力研究会』というサークルを立ち上げ、活動していました。

研究会に招いていただき、青年海外協力隊の体験談を話したことで、その後も少しずつ関わっていくようになりました。

古川さんの野武士のような精悍な外見は学内でも一際目立ち、その行動力や段取り力、きめの細やかさに何度も感嘆しました。


研究会は、様々な試みに挑戦していました。各国紹介のパネル展、国際会議での通訳業務、街頭募金、国際交流イベントの運営などなど。

次から次へとアイデアが湧き出る古川さんに、研究会のメンバーも必死で付いていき、活動の幅も質もどんどん上がっていました。


一方、日々の授業や学校運営に疑問を感じ、真正面から抗議・提案を続けていた古川さんは、紆余曲折を経て、APUを辞めてしまいます。

「古川さんをAPUの職員に」という学生たちの声も届かず、別府市の国際担当職員の話が出たものの、実現しませんでした。

APUも別府市も、貴重な機会を逃してしまったと、とても残念だったことを覚えています。


同時期に古川さんから、NPO法人を設立する構想も聞き、会員として応援することにしました。『(特活)ファイナイト』として登記し、英会話スクールを軸とした試行錯誤を続けていましたが、いろいろな事情も重なり、残念ながら解散となってしまいました。


その後も国際協力研究会の活動は続いていましたが、自分は東南アジア青年の船に参加した後、上京することとなり、研究会の活動へ顔を出すこともなくなりました。今も続いていると嬉しいのですが。


東京に来てからも、研究会の学生の何人かとは交流が続いています。また、鉄人・古川さんとも、つい最近、近況を交換したばかりです。

日本の国際大学の可能性と課題に向き合った経験は、今後も活きると思います。

タグ:20代 国際交流

大分県青年海外協力協会

それぞれの都道府県に青年海外協力隊のOB会があることを知ったのは、ケニアに赴任する直前。大分県青年海外協力協会の壮行会に参加した時でした。


2002年の夏に帰国後、会員として参加。自分がしてもらったように、これから赴任する新隊員の壮行会をひらき、国際交流料理会や、協力隊の説明会を開催したりしました。

また、大分県立看護科学大学(大分市)や、立命館アジア太平洋大学(別府市)などで、協力隊の体験談を話したりもしました。


その後、東京に引越すことになり、帰省の際もなかなか顔を出せず、今に至っています。ホームページの制作協力など、これからも可能な範囲で関わっていきたいと思っています。

タグ:20代 青年海外協力隊

日本縦断自転車旅行

青年海外協力隊の任期も終わる頃、漠然と帰国後のことを考え始めていました。海外経験を通して強く思ったのは、「日本のことを全然知らない」ということでした。

「次は民間企業で働こう。でもその前に日本をもっと見てみたい」という思いがあり、帰国後すぐ、まだ日本を新鮮に感じられるうちに、少し時間をかけて日本を見て回ろうと考えました。


交通手段は、JRの『青春18切符』も考えたのですが、最終的な結論は『自転車』でした。

「時間と体力がある今しかできないこと」であり、「自分の足で、体で、日本の広さを実感したい」と感じたこと。そして、「この経験は話のネタになる!」という想いからでした。


帰国後、実際の準備期間はほぼ 1週間。家族はなかばあきれていたようですが、次は国内だったので大目に見てくれたのでしょう。

インターネットでいくつかのサイトを眺め、本屋で自転車の候補を探し、実際に自転車屋で自転車と必要なパーツを決めました。

地元の自転車屋は、日本縦断のことをあまり本気にしてくれなかったようで、換えのチューブの必要性も聞かされず、パンク修理の方法も教わらないまま(ママチャリとやり方が違うことを知りませんでした)、出発当日を迎えました。


旅に出てまず気づいたことは、日本中にたくさんの旅人がいることでした。路上で、休憩スポットで、観光地で、宿で、ほとんど毎日、旅人との出会いがありました。

通り過ぎるだけの人もたくさんいましたが、中には言葉を交わしたり、少しの時間同行した人も。同じチャリダー(自転車旅行者)には特に親しみを覚え、すれ違うだけでも元気をもらえました。


もう何年も日本中を旅している人もいました。それも何人も。この日本に、そんな生き方があるんだと知れたことで、自分の心が少し豊かになった気がします。今でも、街中でチャリダーを見かけるたびに、彼らの背景や人生を勝手に想像しては楽しんでいます。


当初の予定では、山越えで博多まで行き、フェリーに乗って一気に北海道へ。札幌から南下し、友人を訪ねながら九州に戻ってこようというアバウトなもの。期間も2か月くらいを想定していました。

出発は8月後半で、11月を過ぎると寒くて自転車旅行は無理だろうと予想したためです。


結局、自転車旅行には4か月かかりました。日本縦断には、3か月弱。

北海道・室蘭に着いた日の夜、北海道一周を終えたばかりのチャリダーから、「日本縦断というなら、北海道の最北端・宗谷岬から、鹿児島の最南端・佐多岬まで行くもんだよ」と言われ、その気になったものの、北海道の広かったこと…。日本縦断のスタート地点にたどり着くまでに、2週間かかりました。

また、「こんな旅は、もう二度とできないかもしれない。」と、なるべく海岸線に沿って移動したり、日本海に浮かぶ島にもいくつか渡り、その分時間もかかりました。


旅を通して、普段自分が使っている道が、実際に日本中につながっていることを実感しました。

たくさんの神社や仏閣、パワースポットをめぐり、土地の神様に触れ、とても世俗的・地域的な日本の文化を垣間見た気もします。

日本の地形がとても起伏に富んでいて、さまざまな気候、そこに住む人の言葉や食べ物があることも体感しました。


自転車旅行は、とてもぜいたくな旅です。上り坂があれば下り坂があり、向かい風があれば追い風もあります。ただひたすら、自然と対峙する旅。

ほとんどの時間は無心でペダルをこいでいますが、知らず知らず、自然とは何なのか、そこにどんな意思が働いているのか、そして人生とは何なのか、そんな問いかけが自然と心の内側から湧きあがってくるような、素敵な瞬間があります。

機会があれば、またチャレンジしてみたいものです。

タグ:20代 日本縦断自転車旅行

ケニアNGO

2000年の夏。青年海外協力隊員として、ケニアに赴任しました。

任地はケニア南西部のキシイ県。首都・ナイロビからバスとマタツ(乗り合いバス)を乗り継いで10時間ほどかかる、小さな村でした。


村の周辺にはほとんど外国人は居ませんでしたが、ナイロビには、世界各国からNGOが集っていました。自分は学校の長期休暇を利用して、なるべく他の隊員の任地を回ったり、日本のNGOを訪ねたりしました。


同期隊員が持参してきていた『アフリカ日和』という本の著者・早川千晶さんは、ケニアで『ウペポ(upepo)-アフリカの風ネットワーク』というネットワークを立ち上げていました。

突然のメールにも丁寧に対応してくれ、アフリカ最大とも言われる『キベラスラム』内で寺子屋のように行っている小学校を見学したり、マイクロファイナンスの説明を聞きました。


同じくウペポのメンバーである、獣医の神戸先生は、キベラスラム内でエイズ患者へのカウンセリングを始めており、クリニックを見学しました。

その活動には、『アムダ (AMDA)』も協力していたりと、NGOのネットワークを目の当たりにし、事態の深刻さに沈みつつも、同じ日本人の活躍に励まされたりもしました。


ナイロビから30キロ。カジアド県・キテンゲラにあるNGO『サイディア・フラハ』にもお邪魔し、園内の施設を見学し、荒川さんからお話を聞きました。

また、ケニア隊員の隊員連絡所(ドミトリー)そばに事務所があった『SAVE THE CHILDREN CENTER(S.C.C.)』の菊本さんを訪ね、『マトマイニ・チルドレンズ・ホーム』のお話を聞きました。

それぞれの団体から届くニュースレターは、帰国後の楽しみの一つでした。


ナイロビのムクル・スラムなどで活動する『キャンドゥ(CanDo)』では、他の理数科教師隊員と一緒に、高校生の補習授業のお手伝いもしました。


それぞれの方のお話を聞く中で、単身ケニアに乗り込み、様々な困難を乗り越え、地道に活動する情熱にふれ、どうしても自分をふり返らざるをえませんでした。

何の保障も支援も無い中で、現地に飛び込んで活動することが、自分にできるだろうか。自分はベストを尽くせているだろうか。


帰国後、いくつかのNGOに関わる中で、改めてケニアで出会った方々の「継続する力」のすごさを感じます。自分の30代を考えるにあたって、「継続」はとても大きなキーワードになる気がしています。

タグ:20代 国際交流

青年海外協力隊

青年海外協力隊へ参加したのは、大学卒業後すぐの2000年の春。それまでの自分からはなかなか考えられない決断でした。

今でも覚えている志望動機は、大きく2つ。「人生は引き出しの数で決まる。オリジナリティのあるネタをより多く」という何ともいい加減なものと、「1度レールから降りなくちゃ。本当に出合ったときに、再び降りやすくなるように」という何とも抽象的なものでした。

20代をふり返ると、人生はまさにそのように進んできたことに驚いています。そして「本当」の持つ厳しい面に躊躇し、なかなか踏み出せないでいる今日このごろです。


生まれて初めてのアフリカには、圧倒的な存在感がありました。大平原の中の滑走路、ナイロビ空港に降り立ったときの強烈なにおいと日差し、黒人の肌のつやと白い目・歯とのコントラスト。

事前研修でさんざん脅されていたため、びくびくしながら街の様子を眺めていました。


それから2年。彼らへの印象は随分と変わりました。シャイで陽気な人々と触れ、優しい、いい加減な、あっけらかんとした、熱い、卑怯な、さまざまな人と出会い、「人(自分)」というものへの許容範囲が広がった気がします。


実際は、満天の星に感動するもマラリアが怖くて夜は出歩けず、職場でのコミュニケーションを楽しみつつも現地語に辟易し、日本語に飢えて文庫本を読み漁り、就寝時に感じる下腹部の微妙な痛みに耐えつつさだまさしに癒され、週末はぎゅうぎゅう詰めの乗り合いバスに吐きそうになりながら街に買出しに行く日々でした。当たり前ですが、村には村の日常がありました。


電気もない我が村では、2001年の「9.11」のときも新聞の写真とラジオの実況のみで、全然イメージが湧かない一方、隣人の1人からは「ヒロシマ・ナガサキの敵討ちだ!良かったな!」と励まされ、言葉もなく考え込みました。

いったい、この認識の違いは何だろう?という疑問が、その後の『開発教育』などへの関心にもつながっています。


帰国後も、OB会や学校訪問などの活動を続けています。青年海外協力隊で得られたとても大きなものは、隊員同士のつながりです。

最近では、協力隊がどのようにして始まったのかを学びつつ、今後のOB会の運営や自分の人生を考えています。

タグ:20代 青年海外協力隊

第1回 関東教育支援ネットワーク

関東教育支援ネットワークのミーティングに参加しました。青年海外協力隊の友人である吉岡さんと、JICAの小路さんを中心に、経歴も職業も違う20数人が集まり、とても有意義な会でした。


今日はほとんどの方が初顔合わせということもあり、自己紹介だけで1時間位かかりましたが、それぞれの方の参加の動機や「教育」への想いを聞けて面白かったです。


話題の中心は「学校」でした。参加者の半数くらいの方が現役の先生たちで、それぞれの学校や生徒、同僚の先生、親、地域とのかかわりなどについて報告がありました。

会社勤めの方、ダンススクールの先生、セラピストの方などからは、違った視点からの意見も聞けました。協力隊経験者の方も半数ほど参加していて、海外での学校との違いについても話がありました。


協力隊経験を「違う教育システムに触れた経験」「”多様”を許容できる経験」ととらえ、国際理解教育や外国籍の子どもと接するときに活かせているという意見もありました。

2011年から小学校でも始まる英語教育では、世界の言葉で「こんにちは」「ありがとう」を伝えて子どもたちの興味を引き出したいというアイデアも出てきました。

また、これから赴任予定の隊員からは、1回きりの授業ではなく、赴任中も継続して子どもたちと関わることで、本当の興味を引き出したいという意欲的なコメントがありました。


また、民間企業を経て教員になった方から、「職員室では大人の会話がない」「職員会議は報告と上からの指示ばかり」という問題提起がありました。「教室よりも職員室でプレッシャーを感じる」「子どもは変われるが、自分も含めた大人が変わるのが難しい」という意見に同意する先生も少なからずいました。


「国際」や「ボランティア」などの言葉は自分と違う世界のことのように感じるといった率直なコメントもありました。また、協力隊の経験を話したクラスの生徒から、「私も海外で人を助けることに興味があるが、恥ずかしくてクラスメイトには話せなかった」という言葉を何度も聞き、「自分の夢を語るのが恥ずかしい社会ってどうなんだろう」という疑問を持った体験を聞かせてくれた方もいました。


いろんな話しや考えを聞けて、本当に貴重な時間でした。次回のミーティングは7/18(土)です(会場は東京都内を予定しています)。

タグ:関東教育支援ネットワーク

キャリナビ

1999年秋。大学卒業まで半年となった頃、就活で知り合った大切な友人から、『キャリナビ』への参加を誘われました。

「身近にいる面白い大人に取材に行って、それを記事にしてホームページに載せる」というアイデアがとても楽しそうで、二つ返事でOKしました。


当時キャリナビは発足したばかりで、代表のゆかりさん、アドバイザーの宮城さん・河野さんと、学生が数名という状況でした。活動を始め、コンセプトは固まってきた。次は記事だ、ホームページだ、ということで、記者班とWeb班に分かれて走り出しました。

Webにも興味がありましたが、記事があってのWebです。学生メンバーで役割分担し、半年間を記者として活動しました。


身近なかっこ良い大人にキャリナビの趣旨を説明し、アポイントをとり、友人を誘って突撃インタビュー。取材をするほどテープが溜まり、夜中に学校の端末室でこつこつとテープ起こしをしました。

ナビゲーターさん(取材を受けてくれた方)のお話はとても面白く、自分のつたない文章力にやきもきしました。


卒業後は青年海外協力隊の参加後に地元で就職。転機があって上京後も特に関わりはなかったのですが、2007年、六本木から市ヶ谷へキャリナビの事務所が移ることになり、縁あって再び参画することになりました。

活動休止から2年。ゆかりさん不在の間がんばってくれたスタッフ達、ゆかりさん復帰後に二人三脚で頑張った中村君、それぞれの地道な努力は、本当にすごいと思います。


市ヶ谷の活動をゼロから模索する中で、たくさんの戸惑いや混乱、スタッフ間やメンバーとのぶつかり合いがありました。「キャリナビのミソはレポートミーティング」というのもうなずけます。

特に、スタッフ間の意見の相違をまとめていく立場の鈴木さん、楽山さん、本当にお疲れさまでした。


2009年の夏を期に、キャリナビの活動は再び休止します。これまでに蓄積されてきた、学生記者とナビゲーターさんの真剣勝負の記事を読み返し、少しずつキャリナビ記事の感想を書いていこうと思います。

タグ:20代 キャリナビ

アウトドアゲーム指導法講習会

就活も一段落した 1999年の夏。

青年海外協力隊の結果を心待ちにしながら、残り半年の学生生活をどう過ごすか考えていた頃、またもや1枚のチラシと出合いました。


『アウトドアゲーム指導法講習会』と書かれたその講座は、基本的には教員の方向けのようでしたが、青年海外協力隊で赴任したときに知っておきたいと思い、その旨を書いて申し込んだところ、参加OKの返事が来ました。


会場は国立曽爾少年自然の家。奈良県の山奥にあり、とても自然が豊かでのどかな場所でした。参加者には先生が多かったものの、野外教育に関心がある他の学生もいました。


初めて触れる『野外教育』『ネイチャーゲーム』はとても面白く、新鮮でした。道具をほとんど使わず、自然の中で行う遊びは、大人も十分に楽しめると思いました。

その時にもらった資料集は、もちろんケニアにも持っていきました。ただ、自然との付き合い方は、ケニアの先生方や子どもたちの方が自分よりずっと上手でしたが…。


講習会では、『ネイチャーゲーム』を学んだだけでなく、自分の将来について話を聞いてもらったりと、本当に有意義でした。合宿ならではだと思いますが、夜遅くまで車座になって、いろんな話をしました。

青年海外協力隊を第1志望にしたつもりでしたが、企業に行くのとではその後の人生が全く変わってきそうで(その時はそう思っていました)、揺れる思いにいろいろとアドバイスしてもらったのを覚えています。


アウトドアゲームの方は、その後『地球市民アカデミア』の合宿などで役に立っています。子どもも大人も楽しめて、大切なものに気づける。日々の生活にも取り入れながら、自然との付き合い方を考えていきたいです。

タグ:20代 講座

本当に平和を望んでいるかどうか

元外交官・天木直人さんの6月9日のブログに、読者からのメールとして、素敵な文章が紹介されていました。以下、一部引用します。


「私たちが何をするかではなく、私たちがどういう事実を知るかではなく、私たちが本当に平和を望んでいるかどうか、そして同時に本当に他の国々の人達の安全も尊重しているかどうか、、そういうことが問われているのだと思います。

本当は、私たちはどう思っているか?それが、すべての源になると思います。」


「私たちが本当に平和を望んでいるかどうか」、これはとても深い問いかけだと思います。日常のさまざまな場面で、「平和」と天秤にかけられる「お金」「恋愛」「自由」「仕事」「偏見」などなど。今日の暮らしを優先することで、何かに無関心になる。その積み重ねが今の世界なのだとしたら。。。「自分は本当に平和を望んでいるかどうか」なんて、分からなくなってきます。


「平和」と対立(?)する、「お金」「恋愛」「自由」「仕事」「偏見」などから解放されるには、突き詰めていけば、「孤独」「死」を恐れないことしかないのかもしれません。そうして初めて、「お金」「恋愛」「自由」「仕事」「偏見」と良い関係を築くことができ、「平和」と対立しなくなるのかもしれません。


世界には、「死」を恐れないさまざまな宗教があります。それは、人間の信仰心という優れた面だと思いますが、それらの宗教が、他人の「命」、他人の「死」を尊重しているかどうかと考えたときに、疑問を感じてしまいます。


冒頭のもう一つの問いかけ、「本当に他の国々の人達の安全も尊重しているかどうか」。これには、二つの側面があると思います。


一つは、気持ち。他の国々の人達と直接関わりがなければ、他の国で起こっている出来事は、やはりどこか「ブラウン管の向こう側」になってしまう。でもその国に友人・知人がいれば、その国がとても身近になる。言い古された表現かもしれませんが、「国際交流」の意味は、そこにあるんだと思います。


ただ、自分の反省として、つながり続ける努力が大切だと実感しています。言葉の違いや距離の遠さを越えて、つながり続ける面白さを、身近な人たちから教えてもらっています。


そしてもう一つは、構造的なもの。他の国々に(国内にいる外国人も含め)親しみを持ち、彼らの安全を願う一方で、少しでも安くて質の高いものを買い、こつこつと貯蓄をする。その日常的な行為や美徳が、彼らの国を含めた世界中のさまざまな戦争や紛争に間接的に関係してしまっている。


こんな、とても悲しい現実から目をそらさずにいること。そして、構造を変えるために、少しでも動き出すこと。それが、「本当に」平和を望んでいるか、という問いかけに対する自分なりの答えになるんだと思います。


孤独・死を恐れず、二項対立をやめ、つながり続け、構造を変える。生涯続く挑戦です。その応援歌として、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を大切にしたいと思います。


雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

タグ:国際交流 祈り

ピースボート

「閉鎖的」「陸の孤島」などと言われていた某大学。最近は外部との交流も積極的に行っているようですが、自分の在学中にも、面白い団体がありました。

『D&D(Discussion and Drink too hot!!)』では、大学そばのBarを貸し切って、毎回多彩なゲストのトークイベントが行われていました。


1999年の夏。その企画に初めて参加したときのテーマが『ピースボート』でした。名前だけは聞いたことがあったのですが、詳しく知りたいと思い、話を聞きました。


その回のゲスト・石丸さんは、九州出身の面白いお兄さん。話もとても面白く、直接お話はできませんでしたが、俄然興味を持ちました。何せ、世界一周。夢のような話を、現実にしている人たちを目の前にして、大興奮でした。


その回には、大学の先輩も参加しており、それから連絡を取り合うようになりました。気さくな方で、飄々とした外見と熱い心を持ち、「これから筑波でもピースボートを広めていくんだ!」と燃えていました。


就活の合間をぬって、ピースボート説明会の準備を少し手伝ったりもしました。また、東京に行ったついでに、ピースボートの事務所に立ち寄り、船上での暮らしや、日本国内での活動なども聞きました。


いろいろと興味深い活動でしたが、結局ピースボートに参加しないまま、翌年には青年海外協力隊に参加。任地から先輩にメールを送ったところ、なんとピースボートがケニアに寄港するという話があり、港町・モンバサで嬉しい再会を果たしました。


帰国後も、いろんな場でピースボートに乗った人と出会います。通訳として乗った友人や、船上でミュージカルを始め、陸の上でミュージカル団体『コモンビート』を立ち上げてしまった友人も居ます。


青年海外協力隊と同様、ピースボートも一定の知名度は得ています。これからは今まで以上に、活動の具体的な中身や、参加者の帰国後が注目されてくるのかもしれません。

そういった外部からの評価、自己批判、内部・外部両方からの変革を通して、ますます魅力的な団体となっていくことを期待しています。

タグ:20代 国際交流 ピースボート

創ネットワーク

1999年の初夏。地球が滅亡をまぬがれてほっとしていた頃、国連クラシックライブのミュージカル仲間の紹介で、1人のおじさんに出会いました。

おじさんのことは、「創さん」と呼ばれていること、冬はスキーのインストラクターをしていること以外、ほとんど分かりませんでした。そしてなぜか、創さんはいつも20代の仲間たちに囲まれていました。


創さんが山から下りてくる晩春と、山に戻っていく晩秋に、飲み会がありました。夏の間には、変わった企画があり、その1つ、「サルを見に行くツアー」に参加しました。


新宿に夜中に集合し、小型バスで長野へ。参加者は5~6人。夏のスキー場に行くのは初めてで、とても新鮮でした。リフトがなんだか寂しげだったのを覚えています(サルは、あまり覚えていません。そもそも、なぜサルだったのか…)。


そんな感じのゆる~いつながりが心地良く、創さんのやたら明るいキャラクターに引っ張られ。青年海外協力隊の赴任直前には壮行会もしていただきました。


帰国後は地元に戻り、いつの間にか連絡も途絶えていたのですが、ふとしたきっかけで再び連絡が取れ、先日の飲み会で7年ぶりに再会しました。

相変わらず構図は一緒で、創さん+若者たち。飲み会の参加者に話を聞くと、10年来の付き合いの方から、つい先日知り合った方まで、さまざまでした。


みんなが不思議に思っている創ネットワーク。でも、だれもそれ以上はつっこまず、会話を楽しんで、解散しました。そんな不思議なおじさんと、不思議なネットワーク。また機会を見つけて、ゆる~く参加しようと思います。


「生き方は人それぞれ。」そうは言っても、自分の許容範囲を超えた存在に対して、人がどんな反応をするかは、ホームレスの人たちと接する中で、たくさん話を聞き、実際に見てきました。そして、ところ変われば、自分もその1人であることも実感しています。


創さんや、日本縦断自転車旅行中に知り合ったおじさんたち。彼らと接し、そのエネルギーや生きがいに触れ、その生き方を通して、自分の許容範囲が広がっていくのを感じています。そんな楽しい体験を、これからも続けていこうと思います。

タグ:20代 ネットワーク

ヒッポファミリークラブ

1999年の春。大学の掲示板に貼っているポスターの中に、以前から気になるものがありました。そう、「7ヵ国語で話そう!」というあれです。

ずっと気になっていながらなかなか踏み出せなかったのですが、その頃の「何でもやってみよう」というノリに任せて、説明会に参加しました。


『ヒッポファミリークラブ』というだけあって、当時の住まいの近くの会場では、ほとんどがお母さんと子どもたち。月謝も、単身学生の自分にとっては決して安くありませんでした。

とはいえ、いろんな国の言葉を話したいなぁという欲求には勝てず、参加を申し込みました。


参加することにしたものの、大きな誤算がありました。それは、その後すぐに始まった就職活動です。まさかこんなに忙しくなるとは想像していませんでしたが、早朝のバスで東京に向かい、夜遅い便で戻ってくる毎日。

結局、ほとんど参加できないまま大学卒業を迎え、ヒッポファミリークラブを退会する、残念な結果となりました。


ただ、その中でも良い出会いがありました。1つは、ユースキャンプに参加して、同世代も含めた全国のヒッポ会員と交流できたことです。似たような関心を持った同世代と話せるのは楽しかったし、小さい子が多言語を話す様子に圧倒され、目標もできました。


もう1つは、『UpWithPeople』を知れたこと。ヒッポ会員の方が彼らを受け入れ、パーティーに呼んでもらい、そこで少し彼らと話せました。

世界中の仲間と世界中を回りながらボランティアやミュージカル、そしてホームステイをするなんて、素敵だな~と感激。自分も舞台に立った後だったのでますます興味を持ち、彼らの公演を見て、さらに感動しました。


肝心の多言語は全く話せるようになっていませんが、人生のどこかの段階でぜひまた挑戦したいです。その頃には、地域に根ざして、いろんな国の人を自宅に受け入れていたいな、と考えています。

タグ:20代 国際交流

国連クラシックライブ

1999年の春。就職活動の真っ最中の頃、『パパ・タラフマラ』の演劇ワークショップ仲間の友人から「一緒にミュージカルに出ない?」と連絡が。

数か月前まで演劇にさえ触れたことのなかった自分でしたが、その頃は「とにかく新しいことに何でも挑戦したい!」と燃えていました。とはいえ、ミュージカル…。引ける腰に鞭打って、まずは説明会に参加することになりました。


『国連クラシックライブ』が主催する『赤毛のアン』。いざ会場に行ってみると、「バレエ習ってました」「舞台やってます」といった女性が半分、「何だか面白そう」といった女性が半分。

…男性は、本当に数人。しかも、絶対役者っぽい人(偏見)です。歌は好きだけど、無理だな~と、友人とすごすごと帰宅しました。


今ふり返っても、なぜだか分かりません。ただその頃から、ある状況になると、心の中のもう1人の自分がささやきます。「本当に良いの?」「参加したら楽しいよ。絶対。」

それはかなり言葉巧みで、参加しないとなんだかとても損をするような、そんな不思議な気持ちになります。


その時も心の声を断りきれず、また一方では、自分と全く縁のなかった世界に飛び込むことにわくわくして、参加することになりました。

直感を信じる、運命に身をゆだねる、来た電車に飛び乗ってから行き先を見る、そんな感覚で、それは自分の20代を貫いていた一番の信条かもしれません。


結局友人はパスし、自分1人で参加。3か月後の公演に向け、猛特訓が始まりました。特訓の成果…ではなく、男性が圧倒的に少なかったこともあり、セリフ(一言)付きの役までもらえることになりました。

そこで知り合った友人(男)と2人でバレーシューズを買いに行き、研修所で練習合宿。ターンができずにくらくらしながら、自宅の鏡の前でも振り付けを確認する日々を送りました。


そうして迎えた本番は、「気持ち良い」の一言。たくさんの観客の前で、スポットライトを浴びて、思う存分歌い、踊り、セリフ(一言)を言い、満喫しました。

歌や踊りが上手になった、とはとても言えませんが、共演者とも良い関係を築け、楽しい人生の1コマを作れたと思っています。


このことがきっかけで、青年海外協力隊の帰国後は『UpWithPeople』に参加しようと考えたこともありました。今は、コモンビートの活動にも共感しています。


自分の気持ちをいつも後押ししてくれる、あの「声」。人見知りをする自分にとって、新しい場に参加することは、最初はつらいことが多いのですが、結局は参加して良かったものばかり。

素直に感謝しつつ、「声」をいつでも聞けるように、自分の感覚を研ぎ澄まし、「声」にしたがって動けるように、周りとの良い関係を築く努力をし続けたいと思います。

タグ:20代 舞台

アグーン来日 新宿→湯島→浅草

インドネシアから、東南アジア青年の船の友人が来日し、東京を案内しました。友人は、インドネシアの青年会議所に所属しており、今回はアジア大会のために来日したとのこと。

日本の青年会議所も所属する『JCI(国際青年会議所)』は、世界100か国以上に組織があるそうです。


浅草は人が多すぎると思い、湯島天神へ。お参りをし、おみくじに一喜一憂。楽しい時間を過ごしました。その後、日本っぽいお土産がほしいとのことで、結局浅草へ。

仲見世通りの自由行動で、当初45分の予定が、結局2時間近くになりましたが、雷門のそばであぐらをかいて、のんびり待ちながら談笑できました。あゆみ、みんちゃん、いくちゃん、お疲れさま~。

タグ:東南アジア青年の船 街歩き

パフ

大卒の求人倍率が1倍を切った1999年の就職活動。周りの理系の友人たちが学校推薦の就職や大学院への進学を考え始める中、自分は研究もそこそこに、企業説明会への参加に精を出していました。

初めて知る業種や会社の様子にわくわくし、時間の許す限り、いろんな業種・職種の企業説明会や、就活イベントに参加しました。


説明会に参加するのは気楽で楽しかったものの、いざ自分の進路となると漠然としていて、のんびりした(戦いモードではない)人を見かけるとほっとして、声をかけ、次の会場へ向かいがてら、お互いの状況や将来について話したりしていました。


そんな中で出会ったのが、『株式会社パフ』。新卒学生の就職支援会社としてスタートを切ったばかりの会社でした。素朴ながらも真剣さと熱意を感じて、少人数制の就職セミナー『うまれよ塾』に参加しました。


参加申込書には、その時の迷っている気持ちを率直に書きました。青年海外協力隊に参加したいこと、教師にもあこがれていること、でも受かるのは難しそうで、就職活動も行っていること。

いざ塾が始まってみると、同じように悩める学生が集まっており、そこで社長の釘崎さん、塾長の寺岡さんと出会いました。


お2人からは、訥々と、厳しく、1人1人の志望の掘り起こしが始まりました。自分の曖昧さを真正面から突かれ、返す言葉もなくうつむきながら、「本気で」将来を考え始めました。思えばそれが、本当の就活の始まりだったのかもしれません。


それで将来やりたいことがはっきりと分かった訳ではありません。30歳を過ぎた今も、本当の「関心」と、一時的な「興味」の間を揺れながら、仕事の模索を続けています。

ただ、少なくとも当時、「協力隊を第一志望に、教育系の企業を第二志望に」据え、いくつかの企業の選考から外れながらも教育実習を選び、終了後に気持ちを新たに就活ができたのは、『パフ』のサポートがあったからだと思っています。


就活の区切りがついたその年の夏、パフの事務所でインターンをしました。総勢7名の変わり者達。企業のリストを手に、電話でアポを取り、パフを売り込む仕事でした。成果はほとんど出ず、成功物語はありません。

でも、いろんな人生を歩む仲間と、今も気さくな釘崎さん、日々進化するパフに出会えたことが喜びです。

タグ:20代 パフ

アジアユースパラゲームズ

青年海外協力隊東京OB会の総会に参加しました。活動報告や活動計画を共有でき、意見交換もあって有意義な会でした。

総会終了後には、「障害者スポーツ」に関する講演会が行われました。講演者の麻生OBは、協力隊から帰国後、仕事や個人レベルでの活動も含めて、何十年も地道に障害者スポーツの普及に努めてこられ、『東京2009アジアユースパラゲームズ』のアドバイザーもされています。

身体障害者のスポーツでは世界的にも進んでいる日本の現状と、ユース大会が持つ意味、知的・精神障害の分野ではまだほとんどスポーツへの取り組みが進んでいないことなどを聞けました。

アジアから30か国以上の10代の選手が集まる大会とのことで、語学を含めたボランティアを募集しているそうです。

タグ:青年海外協力隊東京OB会

就活(就職活動)

1998年の秋。学内にちらほらと「就職説明会」の文字が出始める頃。自分の進みたい道はまだまだ漠然としていましたが、何となく「研究者・技術職ではないかも…」という想いもしていました。

幸い、学内の就職課がかなり充実しており、独自の説明会を何度か開いてくれました。


その中で、自分の志望を見つめなおし、「青年海外協力隊に行きたいが、就活も必要ではないかと迷っている」と相談し、「だったら青年海外協力隊を第一志望の企業と考えて、就活を進めたら」とアドバイスをもらえたことがとてもありがたく、時間の許す限りとにかくいろんな業種・職種を見て回ろうと思いました。


自分の興味の有無や、企業側の熱意の差はありましたが、全体として、新しい世界に触れる経験はとても刺激的でした。こうなったら就活を最優先にして、とことんやろうと決めました。


当時、定着しつつあった『リクナビ』『マイナビ』などで企業説明会を探しては、スケジュールを埋める日々。会場はほとんど東京都内のため、渋滞を避け、早朝のバスで都内に向かい、2~3社を回り、夜のバスで大学に戻ってから、これまた定着しつつあった電子メールを確認する毎日が続きました。


ふり返ってみれば、とても充実した日々なのですが、かなり参った時期もありました。『就職超氷河期』という見えないプレッシャーからか、説明会や選考会場の雰囲気は重く、体力的にも精神的にも疲れることも多かったです。


でもそれ以上に刺激的だったのが、新しい人との出会いです。全くのゼロからのスタートだという開き直りからか、初めて名刺を作った嬉しさからか、就活イベントや説明会場で話しかける中で、いろんな人と知り合い、情報交換や、悩み・迷いを相談し合いました。


いくつか思い出深い団体があります。『Jobweb(ジョブウェブ)』では、初めて「就活イベント」に参加。就活を楽しんでいる人たちに触れ、その後の原動力となる大事な出会いもありました。

申し込み時に希望職種を聞かれ、何も考えず「コンサル」と書き、話がかみ合わずちんぷんかんぷんだった、という苦い思い出もありますが…。


『パフ』は最もお世話になった団体の1つです。他の就職支援企業とは明らかに違うスタンスが新鮮で、「就職塾」に参加。就活後にはインターンに参加したり、1年下の後輩のイベントではパネラーを務めたりもしました。


一世を風靡した就職本『面接の達人』は、型どおりを好まない自分にこそ向いている本だったのかもしれません。エントリーシートを書くのに、つまりは自分を見つめなおすのに、ずいぶんと役に立ちました。秋に行われた、おまけのような「内定者パーティー」でも、貴重な出会いがありました。


説明会を含めれば、接触を持った会社は100社以上だったと思います。それでも、全国にある400万社からすれば、ほんのひとにぎり。

そんな中から縁のあった会社の1つでは、内定者が『ビッグバンファクトリー』というイベントを企画・運営するという、面白い機会もありました。


その他の会社も、青年海外協力隊の選考結果が出るまで返事を待っていただくなど、就活には会社との出会いもあること、そして自分と会社との相性というものもあることを実感しました。


あれから10年。ともに闘った(?)仲間たちは、バラエティのある人生を送っています。たくさんの友人と会社に出会えたことも事実。「人格を否定された」と、後々にまでトラウマを残す人もいるくらい、すさまじい競争という一面があったことも事実です。

そして最近、就活中の学生と話していても、同じような悩みを持っている人が多いことに気づかされます。


本来、この「どう生きるか」という悩みは、一生持ち続けるものなのに、就活の時期に集中してしまうことに、そもそものずれがあるのかもしれません。

もっと率直に、あらゆる機会に、自分の生き方を見つめなおす機会を作る。身近なところから、そんな場や雰囲気を作っていきたいと思っています。

タグ:20代 就職活動

学ぶ青年全国集会

1998年の夏。大学生活も後半となり、学内での人間関係は充実してきていた一方で、少し学外にも目を向けたいと思い、情報を探していた頃。普段なら目に留まらないような、1枚のチラシを見つけました。

『学ぶ青年全国集会』。文部科学省が主催していた事業です。ど直球のタイトルがかえって新鮮で、1人旅すらしたことのなかった自分にとって、政府の事業は安心感もありました。


会場は国立磐梯青年の家。初めて訪れる福島県にわくわくしました。開会式では、参加者の年齢が実際より高めに見え、「場違いかも…」と不安になりながら始まりました。


実際、地域活動や青年団体のリーダー、市町村の職員などの参加者も多く、分科会でも、現場に即した熱い議論が行われました。自分には、ただただ圧倒された印象が残っています。


そのエネルギー・ノリは夜も健在で、飲み明かし、語り明かす参加者の中で、呆然としながらも、自分なりの考えを話したりしました。特に年齢の近い人たちとは、その後も連絡を取って近況を報告し合ったりしました。

何より、こういう場があることがとても新鮮だったのを覚えています。会が終わる頃、「じゃあ来年!」「また北海道で!」などという挨拶が交わされ、驚きました。


学ぶ青年全国集会は、その後まもなく終了。青年の家が統廃合され、ユースホステルの閉鎖も続くなど、最近は青年が集う場が集客力を持ちづらい状況が続いています。

もしかしたら、国際交流やワークキャンプ、インターネット上のSNSなど、若者の興味は変わりつつあり、同様の場は別のところに移っただけなのかもしれません。

ただ、全国から同世代の参加者が集い、それぞれの現場の情報交換をし、直接顔を合わせて議論しあえる場として、学ぶ青年全国集会のような場が選択肢にあるのは、意味があることだと思います。

タグ:20代 講座

パパ・タラフマラ

草原に立つ、真っ赤なドレスを着た女性。1枚のポスターが自分の人生に与えた影響は、とても大きかったようです。


1998年の夏。大学の掲示板に貼られていたそのポスターは、劇団『パパ・タラフマラ』の『春昼(はるひる)』の公演案内でした。

それまで演劇には興味があったものの、ほとんど見たこともなかったのですが、なぜかそのポスターに惹かれ、立ち止まりました。


そのポスターには、本番の案内と同時に、公開練習の案内が書かれていました。差し迫ったその日時と場所を手帳に書き、おそるおそるその場に行ってみると…。誰もいない?

問い合わせてみると、会場が隣町に変更になったとのこと。なぜかは覚えていませんが、そこであきらめず、車を飛ばして隣町に向かいました。


会場では稽古の真っ最中。そこで初めて知ったのですが、『春昼』の舞台では、市民からコロス(エキストラ)を募っているとのこと。

公開練習まで見に来る人は珍しかったらしく、男性が足りなかったこともあり、応募の締切は過ぎていましたが、「参加してみない?」と誘われました(その方が役者さんであることも、後から知りました)。

突然のことに即決できず、1日だけ待ってもらうことにしましたが、翌日には「お願いします」と返事をしていました。


『パパ・タラフマラ』での稽古は、自分の想像していた劇団の稽古とは全然違いました。一般市民が相手ということもあったのかもしれません。

音楽に合わせて、「はい、踊って!」と言われたり(当然まごつきました)、ペアになって、体の節々の筋肉・関節をほぐしていったり、その場ですばやく倒れる練習を何度もしたり…。全てが異世界でした。


中でも、床に貼られた20メートルくらいの直線テープの上を「できるだけゆっくり歩く」練習が、深く印象に残りました。

みんなが一生懸命にゆっくり歩く中、演出の小池さんの指示は、「そうじゃない。時間の感覚を変えるんだよ。自分の中に流れている時間をゆっくりしていくんだ。」というもの。

その時の感覚は、今でも忘れられません。「自分の中に流れる時間」というものがあるなんて、それまで考えたこともありませんでしたが、意識を集中していくうちに、ほんのかすかに、その存在に出合った気がしました。


舞台の上で役者に流れている時間が、それを見ている自分のものと違うことに観客が気づくとき、そこに初めて舞台上の世界の「リアル」が生まれるんだそうです。


その感覚、自分の中に流れる時間を意識することは、その後の自分の人生の中でふとした瞬間に思い出されて、そんな瞬間に立ち会うと、なんだか体と心がほっとします。誰のものでもない、自分だけの時間を持っていることに、励まされるのかもしれません。


『春昼』の後も、その年とその翌年の2回、『パパ・タラフマラ』が主催する演劇ワークショップに参加しました。

1年目は性別を超え、人間ですらなくなって演じ、2年目は逆にどっぷりと人間を演じました。そこでの経験と、そこで出会った仲間たちは、自分の人生をとても豊かにしてくれています。


その後の自分は、「超氷河期」と呼ばれた就活を通り抜け、「ロスト・ジェネレーション」と言われる世代に属していますが、『パパ・タラフマラ』の皆さんが今も身をもって示してくれている、「人生にはいろんな選択肢があるんだよ」「勝ち組、負け組なんてないんだよ」というメッセージに強く共感しながら、そういった環境づくりに少しでも関われる人生を送りたいと願っています。

タグ:20代 パパ=タラフマラ

(NPO)kids

1998年の春。社会福祉研究会で自分が所属していた窓愛園を通じて、『(特活)Kids』の主催する『TDL(東京ディズニーランド)プロジェクト』を知りました。

施設で暮らす子どもたちとディズニーランドで遊ぼうという企画で、当日ボランティアを募集していて、さっそく申し込みました。


1人の子どもに1人のボランティアが付き添います。当日は気持ちの良い快晴で、決められた時間にディズニーランドに向かいました。そこで、ボランティアと子どもの顔合わせがありました。

自分とペアになった4歳の男の子・T君は、とにかく元気いっぱい。数人のグループで行動するはずが、とにかく動き回るのが好きで、何度もはぐれそうになります。


乗り物よりも、町並みそのものが珍しいようで、興味のままに駆け出し、自分にとっても不案内なディズニーランドの中で、ついにグループのメンバーとはぐれてしまいました。

スタッフの方と連絡を取り、2人して迷子ルームで待ちます。そこもやっぱり夢の国でした。彼のおかげで、ちょっと貴重な経験もできたかな。


結局、振り回されっぱなしの1日。さすがに最後は2人とも疲れきり、最後まで、言葉を通してのコミュニケーションはあまり取れませんでした。落ち着いた子を横目に、「大変だ…」と思った瞬間もありました。


でも、T君との思い出は、なぜか心に残っています。こちらの勝手なイメージを押し付けず、1人の人間として向き合うことの難しさを知った1日でした。


翌年はチームリーダーとして、直接の担当は持たず、裏方に回りました。就活中ということもあり、深くは関われませんでしたが、社会人ボランティアの皆さんが、1年前から準備し、直前は寝る間も惜しんで、1つのプロジェクトを作り上げていく姿勢にとても感動しました。


近年、『CSR(企業の社会的責任)』という言葉が定着してきて、大企業は「いいこと」の宣伝に躍起になっているようです。

その方向性には興味があり、「企業とNPOのマッチング」を進めていければと考えています。同時に、企業は人を雇用すること、従業員の雇用の質を守ること、それが何よりの社会貢献、という気もします。


(特活)Kidsに関わる社会人ボランティアの皆さんからは、仕事もプライベートも充実している、といったエネルギーが伝わってきました。安心してボランティアができるのは、雇用の質が守られていたことの証だと思います。


最近の紡の勉強会で感じることは、雇用の質を守るには、雇用主だけでなく、従業員の意識がとても大切だということです。

自分をきちんと律すること。他人にきちんと要求していくこと。同僚や仲間を大切にして、自分の居る場所から、つながりを深めていこうと思っています。

タグ:20代 NPO_kids

社会福祉研究会

初めての1人暮らし、初めての関東。後期試験で何とか滑り込み、緑に囲まれた広大な土地で始まった学生生活は、自分にとって未知の世界でした。

日本全国から広く・偏りなく学生が集まり、そのほとんどが1人暮らしという環境はとても刺激的で、視野の広がる良い経験でした。


入学当初に次々と見学・加入したサークルも、1学期が終わる頃には2・3になっていました。その1つが『社会福祉研究会』です。

サークル内にはいくつかのグループがあり、自分は児童養護施設『窓愛園』での学習支援ボランティアを行うグループに参加しました。


サークルのメンバーは毎週1回、自分のペアを組む子と勉強をします。自分はたか君が小4 から中1になるまでの4年間、一緒に過ごしました。

すごく元気でリーダーシップがあり、素直で頑固な彼との時間を通して、人と向き合うことを考え、自分の弱さやタフな部分も見えてきた気がします。


そもそも彼らがそこにいなければならない背景や、親権のこと、施設や児童相談所のことなど、『社会福祉研究会』として、もっとしっかり勉強し、理解を深められたのでは、という気もしています。

ただ現実は、「目の前のこどもとどう向き合うか」「同じサークルのメンバーや施設の職員の方とどう関係を築くか」に集中せざるを得ませんでした。

そして、それはそれで良かったのかもしれません。人とじっくり向き合う時間、それが子どもたちにも学生メンバーにも、一番必要だったと思えるからです。


自分の20代は、たかにとっての10代でした。そう考えると、10年というのは長いような短いような、不思議な感覚です。卒業後も、ふとした時に子どもたちとの再会もあり、とても嬉しいです。

これからの10年、お互いに素敵な30代・20代を過ごせればと思っています。

タグ:20代 社会福祉研究会

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引き寄せの法則

ここのところ、友人が青年海外協力隊から次々に帰国してきています。

20代の始めに外国で、仕事をしながら、その国の人と一緒に暮らした2年間。自分は少なからず影響を受け、その分だけ、帰国後の生活や社会とのギャップに戸惑うことも多かった気がします。


帰国してから7年。何かに引き寄せられるように、本当にたくさんの経験をしました。 30代になった今、20代の経験を言葉にすることでふりかえってみようと思います。

タグ:20代

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